ラオス人社会の助け合いと、面倒くさいお付き合い

人々の暮らし

ラオスに暮らしていると、「日本とちょっと違うな」と感じることは多々あります。

 

言葉や食文化はもちろん。

車の運転の仕方から。

働き方や、家族のあり方。

宗教的なこと。


 

そのうちのひとつに、ラオス社会は「助け合いの社会」である、ということがあります。

ラオスに比べると、日本の特に都市部は「ずいぶんドライだよな」って思います。

 

ラオス人はどんな風に「助け合って」生きているのか。

最近、それをしみじみ感じさせられることが続いて、

 

「すごくいいんだけど」

「ちょっと面倒くさいかも!」

 

という感想を抱いたのが、正直なとこです。

今日はそんなお話を少しばかり。

 

結婚式に、ビールの贈りあい

ある友人グループ(独身男が多い)と、ときどき飲みに行ったりするのですが。

そのときに彼らが言っていたエピソードが印象的でした。

 

「俺らは、互いの結婚式でビールを贈りあうんだ」

 

俺はビールを10ケース、あいつは20ケース。

そしたら、全部で50ケースにはなるから、それで相手は随分助かるんだ、と。

 

そして、俺の結婚式の時には、逆に同じ数をお返しで贈る。

それが、友人同士の助け合いだ、と。

 

ビール1ケースが約1200円なので、50ケースなら6万円相当ですよね。

ラオスでは、6万円はちょっとした大金です。

特に、結婚式は色々とお金がかかりますからね。

 

ビールじゃなくてもいいのですが、そういう時に助けないってことは、「本当の友達ではない」ってことらしいです。

 

なるほど……。

 

同じように、パーティーなどの集まりがあるときに、呼ばれなかったら怒る。

あるいは、呼んでこなかったら、次は俺もいかねえ。

のだとか。

 

でも、その「パーティー」の頻度がけっこう高いので、毎回お付き合いするのはけっこう大変だったりします。

 

濃いといえば、濃い。

うっとうしいといえば、うっとうしい。

そういうお付き合いが、ラオス人の間では日常的に繰り広げられているみたいです。

 

困っているときも、見捨てない

何か問題があったときにこそ、人の性格や気持ちがわかる、といいますが。

親戚でも友人でも、問題がおきたときに、意外と冷たかったり逆に情に厚く助けてくれたりと、それは人それぞれですよね。

 

「相手が貧しいとき、大変なときにこそ、見捨てない」

ということを大事に思っているラオス人は、多いように思えます。

 

「プアン・ターイ」と「プアン・キン」という言い方があるそうです。

プアンは「友達」、

ターイ:死ぬ

キン:食べる

 

で、プアンターイは「一生の親友」

プアンキンは「一時的な友達」

 

のことで、「プアンターイ」が得がたいというのは、日本でもラオスでも同じなようです。

 

特に、社会保障が薄いラオスでは、何かあったとき行政は頼りになりません。

親戚や友人が助けてくれなかったら、にっちもさっちもいかなくなることも。

 

だからこそ、「一生の友達」とのつながりは、日本以上に濃いように思えます。

 

兄弟間での助け合い

人によって様々だとは思いますが、日本では、社会に出たり家庭を持ったりすると、兄弟同士の関係って、ある程度ドライなものになっていくような印象があります。

 

もちろん、何か困ったときに頼ったり、助け合ったりもしますが、それは何か特別なときで、普段はお互いのこと、特に金銭面に口を出すことは、あまりないのではないかと思います。

 

でもラオスでは、多くの場合、兄弟同士の絆の深さ、つながりの濃さは、日本の比ではありません。

 

特に、貧しい農家出身の家庭の場合、収入のある兄弟が、他の兄弟を金銭的に助けるのは当たり前です。

弟や妹の学費は、兄や姉が工面している、というパターンは非常に多い。

ずっと自給自足に近い農家でやってきた親にとっては、高い学費を用意するのが難しいことも多いからです。

 

それはやはり、なんだかんだ安定した収入を得やすい日本社会と、急激に発展しているものの、まだまだ経済的に「貧しい」ラオス社会の違いも影響しているのでしょう。

 

そういうことを除いても、しょっちゅう電話をかけあったりして、常にお互いのことを気にかけあっている姿は、微笑ましく、ちょっとうらやましいものです。

 

まあ、人によっては、そうした兄弟関係が負担になっていることもあるようですけどね。

 

親は養って当たり前

ラオス人によく聞かれる質問のダントツ上位にあがるのはこれ。

 

「親はどうしてるの?」

 

特に私はラオスに長く住んでいるので、ほぼ初対面に近い人からも「親は日本にいるのか、どうしているのか」というのを聞かれます。

 

それで、親は今ふたりだけで日本で暮らしていることを言うと、こんなことを言われたりもします。

 

「子どもは誰も親と一緒に住まないの?」

 

それで、日本では、大きくなった子どもが、必ずしも年老いた親を「養う」わけではないのだと説明すると、驚かれます。

 

「ラオスでは、親は養って当たり前」

「引退した親には楽をさせるのが親孝行」

 

なのだと。

 

それはもちろん、経済的な面、社会保障的な面も大きくて、年を取ったら子供に養ってもらう以外に生きる方法がないことが多い、という背景があります。

 

だから、多くの人が、「親の面倒は見て当たり前」という価値観を共有しているのですね。

そうでなくても、ラオスの人はいくつになっても、なんだかんだみんな、親を大事にしています。

 

日本では、親の方が、子どもを頼るのを遠慮している場合もありますよね。

お年寄りがひとりで暮らしていることも珍しくない。

 

だから、ラオスのそういった「親は大事にして当たり前」「大事にされて当たり前」という考え方は、いいなと思うこともあります。

 

助け合うのは、ひとりで生きていくのが辛いから

日本社会は良くも悪くも、経済的にも、社会システム的にも、「一人で生きていける」社会だと感じます。

 

それに対しラオスでは、社会保障が薄く、経済的にも不安定です。

互いに助け合わないと、やっていけません。

昔ながらの血縁同士や村社会での助け合いが、生活の基盤にあるのです。

 

そうした背景が、「親は養って当たり前」「兄弟や親せきは助け合うのが当たり前」という価値観を生み出して、現在までも綿々と続き、ときには面倒だけど、ときにはありがたい「つがなりの濃い人間関係」を作っているんだろうなと思います。

 

 

まあ、ラオス人から親戚づきあいの愚痴を聞かされることも、ちょくちょくありますけどね。

ちなみに、公務員などの場合、この人間関係に政治的なことも絡んできて、それはそれは大変そうです。

 

そういうのを見聞きすると、「やっぱり、いや大分、面倒くさいよな」って思っちゃったりもします。

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