海外で住んだり働いたりすると、特に最初のころは文化や価値観の違いに戸惑います。
でも、時間がたつにつれ、それも日常となり、「普通のこと」になっていきます。
だけどそれは、表面には見えない、「価値観の違い」というものの根深さに、まだ気づいていないだけなのかもしれません。
ちこです。ラオスに住んで、はや10年目になります。
人からは、
「長いね」
「ラオス楽しい?」
「飽きてこない?」
などと聞かれるようになりました。
人によっては、数年くらいでだんだん慣れて、飽きてきて、別に国に行きたくなるそうですよ。
特に、ラオスはなんだかんだ、アジアの国。
日本と共通する部分もたくさんあります。
主食はお米。
遠慮がちで、長きに巻かれ、和を大事にする国民性も、日本と似ているなと思わされます。
まあ、日本人よりはだいぶおおらかで、のんびりしていて、悪く言えば適当なのが、熱帯らしいかもしれません。
宗教的にも、仏教と精霊信仰のミックスで、日本と通ずるところがあります。
そこまで大きな「価値観の違い」はないんじゃないかと思うことも、よくあります。
ところが。
最近、
「やっぱり、私は彼らの価値観を、本当には理解していない」
という風に、感じるようになりました。
この「価値観の違い」ということ、日本人は特に、けっこう疎いんじゃないかと思います。
日本に住んでいて、「ああ、この人は違うんだな」ってわかりやすく肌で感じる機会は、どうしても少ないですから。
だから、見過ごしやすいけど、やっぱりあるんですよね。違い。
本当は日本人同士でも、それぞれ違うはずなんで。
異なる社会・文化で生まれ育った人なら、やっぱり、違うところはあるんです。
それは、必ずしも目に見える形では表れないかもしれないけれど。
今日はそんな雑感をば。
そもそも、価値観ってなに?
とりあえず辞書をひいてみると、
かち‐かん〔‐クワン〕【価値観】
物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断。「価値観の相違」
(デジタル大辞林)
かちかん【価値観】
いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。 「 -の相違」
(大辞林第三版)
出典:コトバンク
自分の言葉に置き換えてみると、
「何を大事にするか、その個人的な基準・考え」
ということかと思います。
こうした基準が違うとき、「価値観が違う」って、いうのでしょう。
で、言うのは簡単なんですけど、改めて
「あなたはどういう基準で何を大事にしている?」
って聞かれて、答えられますか?
日々の行動を決めるときに、どういった基準のもとで判断しているかなんて、意識していますか?
私はしていません。
というか、多くのことを当たり前だと思っていて、そのことについて考えることもありません。
たぶん、価値観って根深いところにあって、「無意識に」「当たり前」だと思っている部分が大きい。
表面的に見えていることなんて、ほんの一部分。
日本人同士だって、長く付き合ったり、それこそ結婚でもして近い関係になってはじめて、「価値観の違い」で衝突するっていうじゃないですか。
価値観の違いを知るためには、自分の価値観を知ってないといけません。
でも、それを「知る」のって、実は簡単じゃないのです。
やっぱり、日本人とラオス人の「価値観の違い」は、ある
こういうことを本当に実感しだしたのは、最近です。
海外に長く住んでいるのにね。
おいおい、自分、よっぽど鈍いんじゃね?
という突っ込みはさておき。
日本人とラオス人とくくっていますが、もちろん個人差はあります。
でも傾向として、「日本の社会での当たり前」「ラオスの社会での当たり前」という感覚はあるんじゃないかと思っています。
その中でも、私が最近になって実感しだした、大きな価値観の違いのひとつ。
それは、
「人との距離感とつながり」
に関わることです。
これが、日本人とラオス人で、決定的に違うように思います。
それに気づかされたときには、けっこうな衝撃を受けました。
何が衝撃だったか?
それは、相手の考えに対してというよりも、
自分の考えを、自分は想像以上に「当たり前」だと感じている
ということについてです。
それに気づいた具体的な経緯は、次のような感じでした。
東南アジア人との恋愛にありがちな、「べったりした関係」
ラオスに限らず、タイやベトナムでもそうだと思いますが、彼らと恋愛関係になって出てくるのが、日本人には過剰に思える「嫉妬・束縛」。
いつでも連絡をとりたがり、どこへも一緒に行きたがる。
ちょっとでも不安を感じたら、嫉妬による攻撃の嵐。
ある知り合いが、飲みの席のネタとして使う笑い話に、こんなものがあります。
(その人の彼女はベトナム人でした)
「友だちと飲みに行くと、30分ごとに彼女から電話がかかってくるんだよ。
『今、どこにいるの? 誰といるの?』と。
そんな、30分で飲んでいる店やメンバーが変わるわけじゃないだろ? だから、毎回同じ返事をする。
でも、やっぱり30分するとまた、電話がかかってくる。
『どこにいるの?』
それで、ビデオ通話で映像を見せると安心して、一度は切る。
それなのに、しばらくすると、またかかってくる。ほんと、困っちゃうよね」
こうした過剰な心配や嫉妬・束縛の理由として、浮気性な男(女も)が多いからとか、寂しがり屋で依存的な人が多いから、などとよく説明されます。
それも、間違ってはいないと思います。
私もラオスの彼氏がいたことがありますが、彼らもそうでした。
1人目は、嫉妬も束縛も激しかった。別れた原因もそれでした。
2人目は、束縛こそしてきませんでしたが、嫉妬による困った行動というのは、よく見られました。
私はそういう彼らの心理を、「心の中では自信がなく、不安なんだろう」ととらえていました。
その理解も、決して間違いではないと、今でも思っています。
もっと根深い「価値観」の問題
ただ、そんな「自信のなさ」だけではない、根本に流れる「価値観の違い」もあったのかもしれないと気づいたのは、最近です。
それを感じたのは、日本人の恋人がいる、とあるラオス人の友人と話していたときでした。
恋愛がらみの相談を互いにしていたのですが、そのとき「嫉妬」の話になりました。
それで、私は言いました。
「嫉妬されるって、信頼されていない気がするよね」と。
「わたしにはわたしの生活があるんだから、そんないちいちコントロールされたくないよね」
「だいたい、ラオス人はなんでも共有したがるし……」
だからそういうとき、
「わたしはわたし、あんたはあんただからね」
ってよく、彼氏に言うんだよ。
という話をしたところ、彼は言うのです。
「『わたしはわたし、あなたはあなた』って、それをラオス人の彼氏に言ったんだったら、彼は随分傷ついたと思うよ」
と。
え??
私は目が点。
そんなことで、どうして傷つくの???
「だって、相手を尊重するって話であって…」
「そんなの人として当たり前じゃない?」
すると彼は、
「もちろん、相手は尊重するんだけど」
と前置きをしてから言いました。
ラオス人にとって、距離の近い人、特に人生のパートナーとは、
『わたしとあなた』の関係ではなく、
『わたしたち』の関係になりたいのだ、と。
だから、長く付き合ってなお、
「わたしはわたしで、あなたはあなたでしょ」
と言われると、「自分はしょせん、その程度の相手なのか」と感じるだろう、と。
それで、はっと思い当たりました。
これまでに付き合ったラオス人の彼氏と衝突があったときって、確かに私は、「距離感の線引き」みたいなものを求めていたかもしれない、と。
そのせいで、私が想像した以上に、彼らは大きな不安を感じていたのかもしれません。
それが、ますます嫉妬や束縛を加速させていたのかもしれない、と。
これを伝えてくれた友人は、特にものごとを言語化するのがうまい人で、普通の人は、ここまで明確にこの「価値観」を意識はしていないかもしれません。
それでも、その気づきをもって、今までの人間関係を振り返り、あるいは自分の周りにある関係を見つめてみたとき、確かに、そういう考えを持つ人たちが、一定数以上はいるようだ、と納得しました。
自分の「当たり前」を疑う
こんなのはほんの一例にすぎません。
もっとささいな形でも、「普通だ」「当たり前」と思っている考えが、実は相手にとって「当たり前じゃない」ことが、たくさんあるんだと思います。
でも、「当たり前」だと思っている「価値観」には、自分ではなかなか気づけないものです。
だから最近は、「え、そんなの当たり前でしょ?」と感じたときは、
「いやいや、他の人にとっては当たり前じゃないのかもしれない」
と意識して思うようにしています。
相手の考えを、おかしい、間違っていると批判するのは簡単だけど、それだと何もわかってこないですからね。
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