日本人が日本語をしゃべり、日本で暮らしていくのは、当たり前です。
でも、多くの民族や様々な出自の人が暮らす国や地域へ来ると、
「ある単一の民族が、あるひとつの言葉を使って、あるひとつの国で暮らす」
という状況が、実はそれほど「当たり前」ではないことに気づかされます。
ラオスでもそうです。
50の民族が暮らすと言われ、さらに華僑(中国系)や越僑(ベトナム系)の人をはじめ、近隣国から移り住んできた人々も多い。
普段の生活の中でも、公用語であるラオス語をはじめとし、少数民族の言葉やベトナム語や中国語をあちこちで耳にします。
ここでは、それが、当たり前なのです。
ラオスに来て9年になるちこです。
最近、日本の家族からの「そろそろ、日本に帰ってきたら」プレッシャーが、何気に強まっている気がします。
曰く、
「もう十分でしょう」
「もうそろそろ、いいんやないの」
もちろん、家族ですもの。心配もしているんでしょう。
今まで好きにさせてもらっていて、感謝もしています。
でもね。
なんで他の人から「もういいんじゃないの」なんて言われなきゃいけないの?
と思ったりもするのです。
だって、自分の人生は自分のものだし。
「もう十分」かは、自分で決めることなのにね。
でも、周りの意見を振り払えるほど確固たる自信のない私は、ちょっとグラグラもしています。
「やっぱり日本に帰ったほうがいいのか……」
今日は、そんな中でつらつら考えたことをば。
(前にも、海外現地採用で働くことと、キャリアの悩みについて書きました。その悩みが継続中ってことです)
日本人は日本にいるのが自然?
しばらく前に、ある知り合いの日本人の方に言われました。
「いつかはちゃんと日本に帰ったほうがいいよ。日本人は、やっぱり日本にいるのが自然だから」
そのときは、それに対して否定も肯定もしなかったのですが、なんだか印象に残っていて、ふと思い出します。
その方の言わんとしていることは、わかります。
おかしいとか間違っているとは、思いません。
だって、日本人だから、日本にいればビザで困ったりしないし。
無条件で、生涯日本にいられます。
そういう意味で、日本人が日本にいることは「自然」です。
でも一方で、すんなりと納得できない自分もいました。
「じゃあ、今ラオスにいる私は自然じゃないんだ」
「じゃあ、今ラオスにいるラオス人じゃない人は、みんな自然じゃないんだ」
ラオスにいる中国系やベトナム系の人たちと、私では、訳が違うと言われれば、そうかもしれません。
彼らは、祖国での生活が苦しくて、何とか生活の糧を得る手段を求め、ラオスに来たのかもしれない。
あるいは、単に、ラオスのほうが簡単に儲けられると思って、来たのかもしれない。
だいたい、日本人よりも、「移住すること」を当たり前な選択肢として持っている人たちですからね。
一方の私は、日本にいられない事情もなく、日本が辛すぎて耐えられなかったわけでもありません。
ラオスへ行く強い理由や動機があったわけでもない。
ただ、なりゆきで、ここにいます。
日本に帰りたければ、いつでも帰れます。
まあ、すぐに仕事が見つかるか、という問題はありますけれども。
でもやっぱり納得できないのです。
ラオスの水になじみつつある自分
「日本人だから日本にいるもの」
それに納得できない大きな理由は。
「今の自分を不自然だとは、感じていない」
ということなんだと思います。
誰だって、海外に住みはじめてすぐは、外国に来たことをすごく意識するし、言葉も不自由で、現地の人との間にも壁を感じ、はっきり言って、今ここにいる自分を「不自然に」感じることもあります。
ホームシックにかかる人もいるでしょうし、日本に帰るとやっぱりホッとします。
でも、1年、2年と過ごすうちに、だんだんと慣れていきます。
言葉も上達し、現地の文化や慣習も少しずつわかってきます。
私自身についていえば、現地の言葉を覚え、現地の人に混じって暮らし、現地の人の考えを肌で感じることを、かなり強く、自らに課してきた面もあります。
最初は、大学院の研究で来ていましたしね。
ラオスに来て9年、働き始めてからだけでも6年目になる私にとって、今や、ラオスでの暮らしは「日常」です。
言葉がわかるようになると、「壁」のようなものも小さくなります。
長く暮らせば、どこの国の人であっても、「人間だし、根本は同じよな」って思います。
現地の人との「違い」を感じることは、今でもありますが、だからって、まったく相いれないってわけではないと思います。
どこにだって、自分と違う人、分かりあえない人はいるよ。
というか、日本人同士でも、「理解できん」って思う人、いくらでもいるし。
とにかく、ラオスに暮らしている自分を不自然だとは、思っていません。
あるいは、ラオスの社会に、よそ者を自然に受け入れる懐の広さがあることも、関係あるのかもしれませんね。
もっと排他的な地域にいると、辛い思いもするんでしょうね。
じゃあ海外に暮らすデメリットは?
海外全体ではなく。ラオスのような途上国に限って言いますと。
日本で築いていけるかもしれないような、仕事のキャリアを積みにくい。
最先端の技術やサービス、あるいは人に出会い、学ぶチャンスが少ない。
ということが、デメリットとしてあるかと思います。
一方で、ラオスにいるからこそ得ている技術や経験、知識もあります。
ラオスだからこそ挑戦しやすいこともある。
日本では出会わないようなタイプの人と、知り合うこともある。
日本にいるからできることと。
ラオスにいるからできること。
どちらのほうが劣っているなどと、単純に比較できるものではないと思います。
これは、結局のところ、
「自分がどのような人生を歩んでいきたいか」
それ次第かなって、思います。
将来のビジョンを描いてみて。
日本がいいのか、ラオスがいいのか、はたまた他の国でのほうが実現しやすいのか。
あるいは、自分の現状を見て、何ならできると思うのか。
それで自分が納得していたら、どこに住んでいたって、いいじゃないですか。
日本人だけど、どこにいたっていい
時代の流れもあります。
「日本人が日本にいるのが当たり前」な時代では、なくなってきています。
そういう風潮うんぬんを抜きにしても。
自分が納得していて、自分にとって自然な選択で、その責任を自分で負う覚悟があるなら。
なんだっていいじゃないか。
私がラオスにいて、誰かの迷惑になっているわけじゃないでしょ?
たぶん。
だったら、他人に「もう十分でしょ」なんて言われる筋合いはない!
というのが、ぼちぼち考えてみた結論です。
言葉にしちゃうと当たり前だけれど。
「周りの人の語る当たり前」を受け流して、「自分にとっての自然」を貫くのって、そんなに簡単じゃないですよね。
もうちょっと、自分の考えに自信を持って、堂々と人生を選んでいけるようになりたいものです。
選択できる自由と幸せに、感謝しながらね。
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