山と森を耕す「焼畑」。
最近では、森林破壊の原因と批判され、だんだんと減少しはじめていますが、ラオスの山に暮らす人々にとって、それは「伝統」であり、彼らの「生活」でした。
畑からただ実りを得るだけでなく、そこには彼らの「信仰」や「伝承」もまた、深く根付いています。
でも、そうしたものもまた、焼畑と一緒に消えていこうとしています。
ラオスの農村に3年住んでいたちこです。
その村には、いわゆる「ラオ」と呼ばれるラオスの多数民族ではなく、「カム」あるいは「クム」と呼ばれる、クメール系の人たちが暮らしていました。
彼らは森を伐って焼き、畑にして、イネをはじめ様々な作物を育てる「焼畑」をしています。

陸稲の青々とした焼畑
私は毎日、彼らと一緒に畑へ通っていたのですが、そのうちに、彼らが日本にも通ずるような「信仰」や「伝承」をもっていることに気づきました。
元もと、彼らはいわゆる「アニミズム」「精霊信仰」で、日本でいう「八百万の神」のように、自然のあちこちに精霊が宿っていると考えています。
精霊のことを、ラオス語で「ピー」、彼らの言葉では「フロイ」といいます。
森や畑にも、そうした目に見えない「精霊」や「神さま」である「ピー」がひそんでいます。
「精霊」や「神さま」というと、ちょっと恐れ多い感じですが……。
彼らの語る「精霊」って、なんかすごく、人間くさいんですよね。
すごく気難しい稲魂さまとか。
照れやな森の精霊とか。
初めて聞いたときは、「えー!? そんなノリなんや」って驚きましたよ。
今日はそんな、山に暮らす人たちの考える「目に見えないものたちの世界」をのぞき見たいと思います。
とっても気難しい稲魂さま
彼らは「稲の魂」というものを信じています。
日本なら「稲魂(いなだま)」とでもいうんでしょうか。
ラオス語で「クワン・カオ」
彼らの言葉で「フマル・フゴ」
精霊「ピー」ではなく、魂という言葉を使います。
精霊より神聖です。

首を垂れる稲穂
村の人たちは、たくさんのお米が収穫できるのは、「稲魂さま」が畑にやどるからだ、と言います。
逆に、稲魂さまがへそを曲げて畑に来てくれなかった年には、不作になる。
それで、収穫期の前になると、彼らはすっごく気をつかいます。
畑に米倉を立てる。
ご飯やたばこ、お酒をお供えしたり、お花や香りのいい葉っぱで倉の入り口をかざり、米倉に稲魂をお招きする。
稲魂さまをお招きしているときは、邪魔しないよう、よその家の人は絶対畑に入らせない。
畑にあるきゅうりは、収穫中は稲魂さまのものだから、人は食べちゃダメ。
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などなど。

真ん中の小さなかごに入った米は、稲魂さまのもの。

畑でとれるきゅうり
それはもう、いろいろな儀式やら決まりがあって、随分と気をつかいます。
稲魂さまって、けっこう神経質なんですかね?
そう思って、村の人に訊いてみると、こんなお話を聞かせてくれました。
昔、村の人たちは、村の中に米を入れるための倉を作って、そこに稲魂さまをお招きしていた。
だが、あるとき村の人は考えた。
「毎年わざわざ新しい倉を作るのも面倒だよな。そのまま、袋に詰めて家の中に置いておいてもいいんじゃないか」
それで、その年はみんな、倉を用意しなかった。
そのことに、稲魂さまは怒り心頭。
へそを曲げて、その年は頑として、村へ降りてこようとしなかった。
おかげで、お米がぜんぜんとれず、大不作。
人々は稲魂さまにわびて、なんとか次の年は村へ来てもらえるよう、頼んだ。
でも、稲魂さまはそっぽを向いたまま。
困った人々は、頭を下げて、そこをなんとか、とお願いした。
そこで、稲魂さまはしぶしぶといった様子で、こう譲歩した。
「私はもう、村には行きたくない。だけど、山の畑に倉を用意したら、そこには入ろう」
翌年、人々はその言葉に従い、畑の中に倉を建て、稲魂さまをお招きした。
稲魂さまは約束通り戻ってきてくれて、その年は豊作になった。
その年以来、人々は毎年、畑の中に倉を建てるようになったとさ。

畑の中の米倉
なるほど…。
稲魂さまって、気難しいんですねえ。
それはたぶん、そのくらい、毎年安定した収穫を得るのが難しいっていうことなんでしょうね。
お米がとれなかった年は、稲魂さまがそっぽを向いた年。
そうやって、不作だった年のことも自分に納得させて、来年こそはって、つらい農作業を続けてきたのでしょう。
照れ屋さんな森の精霊
稲魂さまだけではありません。
森の精霊(ピー)も、畑の作物には興味津々です。
隙あらば、いたずらしてやろうと待ち構えている。
村の人は言います。
「だから、畑にはお花を植えておくんだ」
なんのこっちゃ??

たくさんの花が畑に
すると、彼らはこんな風に語ってくれました。
あるとき、森のピーが、稲のたわわに実った畑を見つけた。
いたずらしてやろうと近づいていくと、畑の中にたくさんの花が植わっているのが見えてきた。
それに気づいて、森のピーはびっくりして足をとめた。
「どうしよう、きれいな女の子がたくさんいる!」
ピーには、お花が女の子に見えたよう。
それで、森のピーは恥ずかしくなって、あわてて森へ逃げかえっていったとさ。

畑のきれいな女の子?
女の子がいるだけで、恥ずかしくって近づけない…。
どこの男子中学生でしょうねえ。
森の精霊ってそんなに純朴なんだ?
豊かでお茶目な自然と精霊の世界
こうした、山に暮らす人々の思う「自然と精霊の世界」の豊かさが、本当にいいなと思います。
気難しくはあるけれど、そんなに乱暴ではない。
むしろ、お茶目でさえある。
稲魂さまだって、怒っても仕返しなんかせず、ただすねるだけだし。
でも、日本の神様だって、なんだか人情味があって、荒ぶる神もいるけど、やさしい神さまもいますよね。
そういった世界観に、アジア全体を通じての「自然の豊かさ」があらわれている気がしてなりません。
でも、こうした小さなお話や信仰も、焼畑がなくなるにつれて、だんだんと失われていくのでしょうか。
コメント
時々「日本文化の源流は東南アジアにあるのではないか」と思うことさえあります。
本当に、食文化にしても、共通するところはいっぱいありますよね。